(2-2)長谷さんのこと

長谷さんのこと   今岡 孝之(山の会会報56号・1984年1月)

 ヒマルチェリの事故を知ったのは10月9日の夜だった。僕はヘーカ達のアパートでたむろしていた。長谷さんと僕の郷里である高松から電話が入った時、僕も回りの人間も半信半疑であった。と、同時にとうとうやってしまったかという気持ちが脳裏をよぎった。

 実を言うと今も長谷さんが亡くなった事が実感として湧いてこないのが本当の所である。

 長谷さんはルームを離れてからも、ガネッシュ、ダウラギリI、そして今度のヒマルチュリと社会人山岳会で登っていた。そして、ふだんは手紙なんか書いた事もない人が、ヒマラヤに行くと必ず、葉書きをくれた。

 ガネッシュの時は、他の隊員がピカピカの装備を使っているのに自分はルームで使い込んだ秀岳荘のザックとジャンバーで登っているというものだった。それでピークに立ったのだからたいしたもんだと思った。

 ダウラギリからのものは、ちょうどルームの冬のダウラギリと入れ違いであったため、彼特有の突っ張りで一杯だった。僕が最後に長谷さんと会ったのも彼が高松労山隊でダウラギリに行く直前の高松の彼の部屋だった。

 そして、ヒマルチェリから来た絵葉書には、今度は3回目だから必ずピークに立つつもりだという事が書いてあり、端の方に、現役の方もそろそろ危ないから気を付けるようにとあった。僕はベースキャンプ宛に返事を書いたが、読んでもらえたかどうかはわからない。

 長谷さんが札幌にいた頃はよくいっしょに酒を飲んでは説教されたが、あの説教も聞けなくなってしまった。様々な思いが胸中をよぎって文がまとまらないが、ただ長谷さんの冥福を祈るのみです。

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