(3)社会人山岳会時代

1981(昭和56)年度

9〜10月  九州歯科大山岳会 ガネッシュヒマールⅢ峰(7130m〕・登頂 現在は、ガネッシュヒマール Ⅱ 峰(7118m)となっている。

 ガネッシュ・ヒマール Ⅱ (旧 Ⅲ )初登頂を目指してネパール人3名と合同で入山した九州歯科大学隊(隊長:金沢健(35)ら4名)は、9月17日BC(3900m)、北東稜に登山を展開し、10月6日 C3 (6300m )建設。ここで北陵から登山しているドイツ隊と合流した。以後合同でルート開拓を行い、16日桑原信秀(37)、中村譲治(32),長谷伸宏(25)、ティディ、キルケ・ラマがドイツ隊30分遅れて第二登、北東稜発登攀に成功した。【出典:日本ヒマラヤ登山通史 山森欽一 164P】

1982(昭和57)年度 

5月    奥穂高岳

9〜10月  高松労山隊 ダウラギリⅠ峰(8167m)・隊は登頂、長谷は7500m迄(高度順化失敗)

 ※82 秋、ダウラギリ Ⅰ に挑戦した高松労山隊(金沢健(36)隊長ら5名)は、9月18日BC(4650 m)建設、北東稜に入り10月15日C3(7500m)建設、17日午前3時45分 田中純一(30)と三谷統一郎(26)がアタック開始、三谷12時過ぎ、田中14時18分登頂した。 【出典:日本ヒマラヤ登山通史 山森欽一 161P】

<ダウラギリⅠ 峰 (8167m) 遠征記録より>

 自己の最高高度を更新しても、それは頂上に続く一通過点でしかなく、何の感動もありませんでした。ただ撤収の日、振り返ったダウラギリが、前にもまして、大きく映った時、少しばかりの後悔が頭をよぎりました。 「この山にはもう来ないだろうな。」と。

 山へ行く時には、いつも楽しい山登りをしたいと思っています。 全力を出し切った後の爽快感、体がビリビリ震えるほどの緊帳感など、 自分の山行をより良いものにしてくれます。でも、今までのすべての山行で、ほんの少しずつ後悔が残ってきました。 その裏返しとしての登高意欲が、次の山を目指す原動力になっているようにも思います。

 来年もおそらくヒマラヤに行くと思います。 しかし、自分の山登りができるかどうか気がかりです。ヒマラヤは慢然と登るには、少しぜいたくすぎます。 しかし、ヒマラヤも我々にとって高々山岳部の山行の延長線上にあることは確かです。 高々山岳部OB会で近い将来、 海外登山ができるものと期待している一人です。 (長谷・岳樺No.26)

<ネパールより>抜すい

 ・・・・・・僕の隊は何から何までうまくいって、 金沢さんが登れなかったことぐらいがよくないことなので、恵まれていました。 金沢さんはかなりくやしいと思うけど、僕にとっては実にラッキーの連続のような遠征でした。 (中略) あとは、次のヒマルチュリの偵察に行くまで一週間ぐらい暇です。 まあ、トレッキングの準備はあるけれど、わりと簡単に終わりそうです。 11月10日ぐらいから11月いっぱい、まあ12月初めまで、ヒマルチュリの偵察をして、その後少し歩こうと思っています。 まあ、12月中には帰るんじゃないかなと思っています。

 「岳樺」の原稿依頼がBCまでくるとは思いませんでした。 ネパールにいると、日本のことがかなり遠い国のこととなってしまいます。まして、ネパール語の片言しかしゃべれないので、自然と僕でも口数が減ってきます。 その分、食べる量は増えたけど。  (長谷・岳樺No.24)

11〜12月 ヒマルチュリ峰BCまで偵察(Dumre からBCまで徒歩9日間)

1983(昭和58)年度

9〜10月  香川県勤労者山岳連盟隊ヒマルチュリ(7893m)・南西壁6300m地点で遭難

 ヒマルチュリ 香川県労山隊の高林久蔵(56)ら9名は、南陵からの登頂を目指して入山。10月6日 6300m地点で転落した隊員に3名が引きずられ 200m転落した 長谷伸宏(27)と藤田雅之(31)が死亡した。【出典:日本ヒマラヤ登山通史 山森欽一 169P】

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