7.3.8 巡礼を終えて
冷たい金属片のプレートごときで彼らの魂が安らぐものではないが、二人の存在と名をDordi kolaに伝え残したかった。二人が眠り続ける地域のYuba氏とは、その後も情報交流を続けさせてもらっている。これからも続くMeme Pokhariへの巡礼や地域のことも聞けるだろう。こちらからは地域に役立つような情報を伝えたいと思っているが、何ができるか考えあぐねている。Google Earthに自治体全域の100m等高線を入れたファイルを送ったりしている。3枚作ったプレートの残り1枚は予備としてRajuに託した。帰国して数ヶ月後、薬草畑の灌漑を相談してきたRajuがWhatsappで送って来た生まれ故郷、Jyamrungから見える山々の写真には、Tilmanが驚いたHimalchuliの凄い尖峰の頂きがあった。TilmanはKathmanduからMarsyangdi川へ至るために、Jyamrungの南側を通っている。そして、Himalchuliの45度右側にはPabilと1981年に九州歯科大隊に参加した長谷がネパール人達と初登頂したGaneshⅡ(旧Ⅲ)峰があった。Jyamrungからは、南西壁の岸壁帯も視認できる。南西壁の二人の遺骸は、包んだテントとともにいつかは氷河から解き放たれるのかもしれない。年さんのザックのように。その頃は私も存在しないが、RajuやSubhasu達、そしてYuba氏から二人のことを誰かが伝え聞き、語り継いでもらいたい。


Photo801 Jyamrungから北西、Himalchuliの凄い尖峰の頂、南西壁も望める
Photo802 Jyamrungの北東、中央右に長谷がNepal人と初登頂した白いGaneshⅡ(旧Ⅲ)峰
高松高校山岳部の先輩であるHimaichuliのKa登攀隊長と長谷の関係は詳しく分らないが、香川に戻る前から交流はあったのだろう。山登りを続けたかった長谷は実家には帰りづらかったのでKa登攀隊長が住む場所を世話したことを本人に会った中谷君から聞いた。長谷が慕い、最後に巻き込まれて重症を負ったKa登攀隊長も香川から信州に移り住んだ後、2010年に病没されている。2012年に奥様(遭難時はKathmanduで対応)とW氏とでNepalに散骨されたことは帰国後に聞いた。その奥様も2024年3月に亡くなられている。W氏がKa登攀隊長のプライベート・チームでもあった「カトマンズ・クラブ」(香川県山岳連盟)に所属していたことをどこかの時点で認識したが、二人の山登りの話は聞いていない。K1を譲ってくれた時のW氏の言葉には、別の意味があったのかもしれない。今となれば、病没されたKa登攀隊長の二人への想いが私とW氏を種となるK1で繋ぎ、巡礼へと誘ってくれたような気すらする。一緒に巡礼した多くの人の想いのなかには彼の想いも含まれていたのだろう。巡礼の準備をしている時に志賀からは「熱いなっ!」と冷かされたこともあったが、どう考えても私の熱量だけでこの巡礼を果たすことはできなかった。
遭難は、多くの人々に辛い想いを強いるだけでなく、それぞれにそれぞれの解釈を重ねることを求めてくる。そうやって失われた命は各自の中に眠り、時としてその眠りを覚ましては悔悟を求め、惑わせてはまた静かに眠る。そうやって心の瘡蓋はいつの間にか剥がれ落ち、傷跡は時間と共に薄くなってはゆくが、消えることは無い。今回は、W氏との出会いがきっかけとなり、Meme Pokhariへの追悼行では二枚の小さなプレートを捧げると共に多くの人の想いを知ることができた。登山隊に関わった方々の辛い想いは、今も続くのであろうが、共に巡礼したことも受け入れて欲しい。
2025年8月、樋口君から連絡があり、長谷の高校後輩部員が私の追悼行の話を聞きたいとのことだった。北大WV部OGでもあるOさんは、長谷とは少し離れてはいたが、何度か山行を共にしていた。高校生にとってヒマラヤを毎年登る先輩は特異な存在だったのだろう。彼女も長谷から北海道の山の話を聞き、当時のAACHには女性部員が居なかったこともあり、WV部へ入ったそうだ。Oさんはいつか仕事を終えたら、長谷の眠る場所を訪ねてみたいとのことだった。私の追悼行を自分のことのように喜んでくれ、長谷の高校時代の山行歴を整理してみるとも言ってくれた。二人を訪ねるのであれば、私が辿ったルートは効率的では無いだろう。Photo803のGorkhaが候補となりそうだ。そもそも札幌へ来たのは、日本山岳連盟のミニヤコンガ遭難関係者(Oさんと同じ北大WV部員)の遺品が山中で発見され、その引き取りの関係で来たことを後日知った。長谷への想いを持つ人をまた一人知ると同時に、二人がいつの日かHimalchuliの神から解き放たれることを再び考える。その時までDordikholaの人々にHimaichuliの神に捧げられた二人の物語は伝わっているだろうか。

Photo803 Himaichuliの南西壁を望むのであればGorkhaは良い場所だろう。宿も沢山ある。中央の緑の尾根を隔てて、約50km先に中央岸壁が見える。二人の眠る場所は岩壁の左端下部6,100m地点である。
出発前の6月、氷河研究をされている伏見さん(61)に二人が埋葬された氷河の移動距離を尋ねてみた。流石に地形、気象、降雪量の情報がなければ考察もできないので、そのままにしてしまったが再度研究してみたい。その結果をDordi kolaのYuba氏に伝え、語り継いでもらうのだ。
ミニヤコンガは、北海道岳連が山道具屋「ダケカンバ」(長谷も山道具を買いに行っていた)の主人でもあったKaw氏が隊長時にも滑落で8人が亡くなっており、日本山岳連盟事故の 年後、私の学部同期のH氏が隊長を務めた札幌山岳会隊が日本人として初登頂している。その登頂者の一人は、冬のペテガリ登頂後に先行者のトレースを辿るも雪庇を踏み抜いて誘発した雪崩に消えた。誰一人、山での死を望んでいなくとも、人が山に登り続けるのであれば事故は起こり得る。それは身近に山の事故を経験しても山から離れられない者にとって避け難いことでもある。
そして、2025年11月にはAnnapurna内院をトレッキングしてきた井上さん(66)、吉田さん(67)から、Pokharaへ向かう途中Himaichuliに向かって黙とうを捧げてきたとの連絡もいただいた。昨年の追悼行がなければ、秋の山行で一緒になった時に二人のことを伝えることすら無かっただろうとも思った。
2026年は北大山岳部の創立100周年である。50周年祝賀会を何故がサボタージュした私は、長谷の居ない100周年祝賀会に参加し、長谷のことをまた誰かと語るだろう。いつまでもOver specの「ライオン丸」を漕ぎ出し波に揺られていると、地球に遊んでもらっている感覚になる。銭函の海は知床のショウジ川やDordi khola、Meme Pokhar、南西壁氷河へと繋がっている。そっと海に手を浸せば、情景の中に山の友を偲べることも覚えた。巡礼道へと私を導いてくれたTilmanもRioからFolkland諸島へ船出した後、「En Avant号」とともに海へと消えている。何も考えず静かに過ごせたはずの海も陸に住む人間の傲慢と不調和に気持ちが晴れなくなってきた。巡礼行からもう一年が過ぎてしまった。二人の命を宿す者達に残された時間も限られてきたようだ。