7.3.5

巡礼報告

7.3.5 巡礼のはじまり

 9月8日、札幌から出発したNPOのO先生とはThaiのSuvarnabhumi空港で合流し、我々はNepalのTribhuvan空港で滞在先のSurjaさんの出迎えを受け、深夜に雨のKathmandu北西近郊にあるSankhu(EL 1,400m)に到着した。Himalchuliまで115kmと一気に距離は縮まった。案外、直線距離にすれば近いものだ。私は、Sankhuに着いてからはWhatsappでRajuと連絡を取り合い、到着して二週間を過ぎた頃に初顔合わせのためKathmanduの会社を訪ね、行程や装備の確認とプレート設置場所の相談をした。Nepal最大の祭りであるDasain期間(月の周期により毎年期間が異なる)が、二人の命日と重なってしまうのでポーター確保からその期間を外したつもりが、地域によりその前後に休日が含まれたり、次のHindyのお祭りTihar(この期間も月の周期による)との関係もあるようだった。

 SankhuからKathmanduへはローカルバスで出易いのだが、Kathmandu市内からのローカルバスに乗るのは一苦労、バス停が分からず往路で通ったBauddhaまでバイクタクシーを利用したこともあった。ローカルバスはバス停に到着すると、車掌が行き先を叫ぶのだが、その聞き取りができず、近くにいた買い出しに来ていた仏教僧の助けを借りた。行き先毎に長いバス停で止まる場所も決まっていることから、その後のローカルバスは滞在時の足となった。Sankhu滞在時、O先生とMonohara川を挟んだ南の丘に登る機会があり、僅かな時間に雲の間からLangtang山塊のDorje Lakpaの白い頂が見えた。「ちょっと近くまで来たから、あとでそっちに寄るよ」「おい、ついでかよー」長谷と会話する。樋口パーティ(会報135号 p.25、松本、小林、京大山岳部OBの幸島さん他)の出発と私の日程が合わず、彼らと会うことは出来なかったが、関係者と同様にMeme Pokhari到着時期の追悼をお願いした。

 9月下旬には南のタライ辺りから来た季節労働者による稲刈りが始まり、Surjaさんのお兄さんにお願いして作業をさせてもらう。言葉は通じないのだが、一緒に働くことで怖いと思っていた南方民の顔が優しくなる。圃場での脱穀後は直ぐに近隣の住民による鶏糞散布と櫛状の畝立て、夏ポテトの植え付けが始まった。これもSurjaさんの畑で手伝わさせてもらった。9月末の長雨はNepalで200人以上の死者をもたらす災害となったが、Sankhuでは田畑の一時的な冠水で事なきを得た。

Photo501 滞在先のSankhuをBajrayogini 寺付近から俯瞰する。かつてはチベット交易の中継点であり、王家の避暑別邸があった。

10月10日 Sankhu→Kathmandu

 O先生の帰国日程も決まり、私のNPO作業が一段落、滞在していたSankhuをO先生、ホストのSurja夫妻からは素敵な花束と旅の無事を祈る簡単な儀式で見送りを受けて出発した。荷物が多いので、ローカルバスは使わずSurjaさんにアプリでタクシーを呼んでもらった。

Photo502 Sankhu出発の朝、Surjaさん、Santyさん、O先生に巡礼の無事を祈ってもらった

 若いドライバーの丁寧な運転が珍しかった。アプリ利用の場合、チップは本来不要だが、降車時にアプリ表示料金以上を要求するドライバーも多い。Rajuの会社横のバイク屋の親父は、明日Dasainの生贄となる山羊を買ってきて繋いでいた。山羊達にとっては受難の季節だ。建物の2階にある会社に入ると、ポーター頭のKaji、キッチン頭のJanbu、キッチンのPenbaが慌ただしく荷物をまとめていた。巡礼路には撤収間際のカルカはあっても人家は無く、全て野営となるので荷物が多い。客1名にガイド3名(内現地1名)、キッチン・ポーター3名、ポーター5名(新人2名)の合計12名、前に聞いていた人数より多くはなったが、追加料金の請求は無かった。私の個人装備は背負うと言っておいたので、不要な物は預けることとし、パッキングを終えると、Kajiが片手で持ち上げ、軽い軽いとわざわざ言ってくれた。ポーターは30kg位を担ぐのだから当然だろう。しばらくするとRajuの妹ガイドのMityも来て、不足を買い足しに行くと言う。他にする事は無いので、Rajuに頼んでATMで換金をするため、買い物する皆と別れた。Rajuのバイクの後ろに乗り、カード会社の推奨銀行のATMを選ぶが、カードを認証せず、何回か繰り返しているとカードがATMに食われてしまった。Rajuが銀行に電話するが、明日でなければ対応できないと言うので、このままにして帰ってきてから対処することとした。両替屋で手持ちのドルをルピーとした。Nepal着後に始めてKathmandu(EL 1,300m)に泊まったのは、Rajuが手配してくれたThamelのFamily Peace Houseだった。そこは、樋口君の定宿International Guest Houseとも近かった。夕食のレストラン街はRajuから教えてもらい、荷物を下ろして出かけたのだが、一人の食事は如何にも侘しい。結局、商店でパンとバナナ、水を調達し、部屋で食べることにした。商店主は私が日本人だと分かると、息子は日本で働いているので、ラーメンを持って行ってくれと言ってくる。ごめんごめん、これから山へ行くので、帰ってきたら寄るよと返したが、こちらを見透かした店主に、がっかりとした顔をさせてしまった。近くの宿では地元のパーティが開催され、賑やかな音楽を聴きながら眠りについた。

10月11日 Kathmandu→Taksar C1 (EL 1,600m)

 早朝から目が醒める。身支度を整え、屋上に上がると宿主のペットなのだろうか二羽のウサギに出会った。「不思議の国のアリス」の始まりか。Kathmanduの街はまだ微睡の時間、車の騒音も聞こえないが、大昔のように薪が燃える匂いもしない。西の方角に  寺院が見える。藤田さんと長谷の葬儀を行った 寺もその近くにあるはずだ。長谷のご両親の手元に帰ってきた遺品を考えれば、藤田さんとて同様だったのだろう。 寺の祭壇には二人のわずかな遺品しか並ばず、打ち拉がれた香川労山隊と関係者の無言の時間が過ぎたことだろう。それから41年が過ぎ、ようやく私の追悼行が始まる。

Photo503 Family Peace Houseの屋上からのKathmandu市街、屋上の給水タンクは断水対策でもある

Photo504 Kathmandu出発の朝 ウサギはチョッキを着ていない。屋上から  寺院を望む

 Rajuが宿に迎えに来て、幹線通りに駐車していた複数のドッコを屋根に積んだハイエースの2列目に私は着座し、後席のメンバー達に半身になって挨拶をした。走り出した車内の賑やかな会話は、リングロードを西に向かう途中で急に慌ただしくなる。前席のRajuが何事かと聞くと、どうやら忘れ物をしたようだった。車を左に寄せ(Nepalは日本と同じ左側通行)て止め、バックドアを開けて確認する。やはり無いらしい。会社まで戻るのかと思いきや、途中の市場で停車し、キッチン・メンバーが買い物に散った。どうやら食器を忘れたようだった。

 ひと騒動が収まり再び走り出した車は、リングロードを離れた。9月に200人以上の死者をもたらした洪水被害があり、Pokharaへ向かう幹線道路は復旧工事が渋滞を起こしているので、Kathmandu盆地を抜ける迂回路を利用した。EL 1,530mの峠を越えると、Kathmandu盆地側の街並みとは一変し、急斜面に開かれた棚田地となった。そして、賑やかだった車内は、いつしか静かになっていった。Pokharaへの幹線道路に再合流すると、2車線の舗装道路と改良工事が続く悪路が交互に出現し、洪水爪痕とTiharに捧げられることも知らない山羊達を見ながら車はTrisuli川の左岸沿いに標高を下げてゆく。朝食は途中のドライブイン、それぞれが好きなものを示し、店員に盛ってもらい清算する方式である。広い食堂にポツンと我々だけが、手持ち無沙汰な店員の視線を浴びなら黙々と食べる。

 Malekhu(EL 385m)で待っていた若い二人の新人ポーター、PremとSagarをピックアップし、車はMugling(EL 280m)からはMarsyangdi川の右岸沿いを今度は上がってゆく。Trishuli川沿いの険しい道に比べMarsyangdi川沿いは平坦部の耕地が広がる。昼食は旅宿と食堂を兼ねた店、バートに熱い油を注ぐのは、グルン式だと言う。川魚のスープを追加した。昼食後の移動中に河岸平野の向こうに白く尖った山が見えた。皆、寝ているので聞けなかったが、Himalchuliの頂だったかもしれない。偵察の長谷や香川労山隊はPokharaとの分岐となるDumreをからキャラバンを開始したが、40年も経過すれば舗装道路がどんどん奥へと伸び、バスが通いバイクや車の通行量も多い。グルンの文化圏に入った故か、生贄となる山羊の姿は見なくなった。古い家の建物様式も飾り窓が特徴的なネワール文化圏のSankhuとも違っている。

 Lamjung地方のBesishahar(EL 780m)でタウンエースからTata社の4WDに乗り換えるのだが、我々の到着が遅かったためか、山の村人とチャーター車の競合が生じた。言い合いばかりで、なかなか決まらない。RajuがこれがNepalなのだよと意味じくも言うのだが、最後は車の手配主が調整してなんとか収まった。車種が異なったためか、哀れ新人ポーターPremは割を食って、別車に乗車させられ、後から合流することとなった。Tataの4WDは白濁し、水量の多いMarsyangdi川に架かった鋼橋を渡り、曲がりくねった悪路を進む。ドライバーはスマホ片手に喋りまくっているが、悪路の要所をトレースする。急勾配坂はコンクリート舗装されているのには驚いたが、ハンドルを捌く手が止まり、Taksar村にようやく到着した。

 車から降りて150m歩いた先のキャンプ場がC1となる。標高は1,600mなので、滞在していたSankhuよりも200m高いことになる。設営は全て任せることになるが、そんなことに慣れていない私が手伝おうとするとRajuが客の仕事では無いと言う。このスタイルを受け入れてゆくしか無いようだった。テントは私、RajuとMity、Kajiのドームが3張り、ポーター用の家形が1張りの4幕が広場に点在した。

Photo505 昼食のグルン式ダル・バート・タルカリ ご飯に煮えたぎった油が注がれる

Photo506 悪路に胃がひっくり返る前にC1手前に到着 屋根の竹カゴがドッコ

Photo507 C1サイトにテントが並ぶ、奥にTaksar村

 見慣れない日本人が珍しいのか、度々話しかけてくる最年少ポーターのSagarは、Rajuから聞いて事前に巡礼サイトを見ており、巡礼の目的を理解していてくれたのは嬉しかった。サイトにはネパール語に変換表示するプラグを付加したことが役立ったようだ。未来ある若者は、卒業後の将来を考えているようだった。PremとSagarはRajuと同郷で、今回は初めてのポーター経験になるらしい。この二人の若いポーターは、親の了解をもらい、学校を休んで参加してくれていた。Nepalの学校教育の英語は機能しており、若者はほぼ英会話に支障が無い。ほぼと言うのは一年上のPremとは英語で話すことは無かった。Nepal国内の仕事が少ないため、多くの若者が海外へ働きにゆき、家族への仕送りがNepal経済を動かしている一面もある。

 管理人宅のテラスに展開するキッチンにはプロパンボンベと複数台のガスコンロが並ぶ。今回の旅には重要な道具であることを改めて認識した。管理棟テラスでの夕食後、Marsyangdi側の眼下にはBesishaharの街が灯りとともに浮かび上がったが、しばらくすると谷間の闇に沈んだ。Sankhuと同じように毎度のことなのだろうが、しばらくはこの停電とも無縁となる。

10月12日 Taksar→Khupru C2 (EL 2,580m)

 C1の朝が明けた。幸先よく遠くに霞がかったHimalchuliが姿を現し、ようやく辿り着けたことを二人に告げたが、まだ30kmの距たりがあった。C1から見下ろすDordi khola(乳色の川、牛乳の川)を彼らは辿ったが、その先のBCは西峰から南に伸びる尾根の影だった。

Photo508 中央上にHimalchuli、右下のDordi khola沿いを香川労山隊は辿った。

Photo509 オーツ・ミルク粥、オムレツとパンは客のみ

 二人が眠る南西壁の地点をZoomしたレンズがぼんやりと捉えた。光量が足りないので鮮明には見えない上、岩壁の下部が見えないので位置を判定しづらいのだが記憶していた登攀ルート図を思い出す。裸眼でははるか先だが、目的の半分を達成したような気になってしまう。キッチンテントを張らず、管理棟テラスで寝ていたPembaと朝の挨拶をすませ、テントに戻れば、洗面用のお湯、そしてブラック・ティー(ジンジャー+ペッパー)とクッキーを届けてくれた。その後、キャンプ場の管理棟テラスでKajiから南西に見えるアンナプルナ山群の山々の名前を聞きながら、パンとオムレツ、オーツ・ミルク粥の朝食を済ませた。メンバー達もオーツミルク粥を食べている。通常は、お茶とクッキー程度で朝食は摂らないらしい。沸かしてもらった湯を1リットルのNalgen水筒に入れ行動用とする。

 パッキングをしていると近くに住む現地ガイドのSubhasがやって来て、ようやく全員が揃った。グルン、シェルパ、ライ、タマン、ヤマト族混成による巡礼が始まる。古いトレキングシューズの紐を絞めたが、硬化したゴム底はグリップが効かず滑り易く、行程中の濡れた降り道には難儀した。ポーター達は結構な荷物となり、準備が出来た順に管理人のChandraに見送られながら歩き始めた。集落の中を過ぎ、騒がしい子供達の声と我々には無関心な若者が過ぎてゆく。しばらく行くと蕎麦とアマランサスの穂が風に揺れる段々畑の向こうに見えるHimalchuliが早く来いと招く。

Photo510 南西壁の上半、頂稜は左から西峰、北峰、主峰となる。望遠ではあるがようやく二人が眠る場所を視界に捉えた

 この地域でのチベット様式に違和感を感じながら行程中最後となるチョルテンの左をKajiに確認してから通り、まだ幅の広い道をゆっくりと歩きながら、追い抜いてゆくメンバーと年齢当てクイズを始めた。私の年齢が分かると皆一様に驚き、その表情を見るのが面白かった。しかし、それは一回しか使えないクイズでもあった。Rajuは撮影をしながら最後尾を歩き、妹ガイドのMityは私のペースメーカーの役割を果たすべく、安定した歩きで先導してくれる。巡礼の目的で歩いているのは私一人だが、二人と関係する多くの人の想いとともに歩くのだと、改めて気を引き締める。4WDなら通れる道は、森の古道とブル道を交互に繰り返すようになった。

Photo511 チベッタン仏教徒もここを巡礼をするのだろうか

Photo512 カルカで暮らす夫婦、ミルクを頂いた

 昼食は、牧草地の一角に滞在してのんびりと過ごす。昼食では圧力鍋の炊飯が行われる。近くのカルカでは水牛と乳牛を飼っていて、バターを街へ下ろす運び屋が居た。我々もカルカの中に入り、夫婦から温めた牛乳をご馳走になる。運び屋は街でバターを売り、その代金でカルカに必要な物を買い、カルカに届けるそうだ。

 昼食後、ゆっくりと歩き出し、何故こんな場所に道路が、と思うような箇所を何度も見た。それも、既に崩れて使えなくなっている。Rajuに聞くと、地方行政組織が中央からの補助金とそのバックを目当てに沢山の道路が作られたとのことだった。ブル道は、美しい古道を断絶し、樹木や土砂を谷側に叩き落とし、山肌に傷を残す。雨が降るとブル道を雨水が走り、ガリ侵食を起こし、やがてブル道は通れなくなる。痛々しいが、幸い道の両側の森林は皆伐されることもなく、その姿を保っている。道の分岐では、Subasが進行方向を地面に残している。私は見落としてもMityにははっきりと分かるようだ。森の植生は豊かで、下草も多い。北海道のような笹類は無いので、本州山地に似ている。先頭を歩くSubhasの軽装が気になるが、直ぐに姿が見えなくなってしまう。何度目かの休憩をしていると、森の中からひょっこりとJanbuとSubasが日本のマスタケに似たキノコを抱えて現れた。

Photo513 ブル道は既にブルドーザーの通行もできなくなっている

Photo514 今晩のおかずを確保したJanbuとSubas

Photo515 Mityは古道を一定の速度で先導してくれた

 初日ゆえ新人ポーター達は少し遅れ気味である。どこまでも続くブル道に閉口し、腹いせに日本語は通じないことを良いことに「テメーら、遅くなったら晩飯抜きだぞ」と叫ぶと、Rajuは意味が分からないままに復唱するので大笑い。しばらくして、下の方からコールが戻った。そして、一日歩き通してBara Pokhari LekとTaskerから続く尾根が合流するKhupru に至り、C2とした。此処でTilmanがUsta村から登ってきた道と合流することになる。C2近くに建つカルカの羊飼いはSubhasの友人であり、カルカは情報交換の場とともに、Subhasの寝場所となる。ポーター達はC2到着後に水汲みに往復30分を要した。

Photo516 Bara Pokhari Lekの巡礼古道が美しい

Photo517 Khupruのカルカと羊とテント群

10月13日 Khupru→Chyarbo danda C3 (EL 3,550m)

 早朝、まだ誰も起きていない外に出るとズックが朝露に濡れる。ここから見える北西のManaslu、Ngadi Chuli(旧名・P29)は、Himalchuli同様に70代以上の日本人には馴染み深い山々である。そして西にはAnnapurna山群を望んだ。写真では見たことが無かった角度からの山々の姿は新鮮だった。特にAnnapurna Ⅰ峰の南陵リッジが印象的だ。尾根では水が貴重なので、朝の洗面湯は今日を最後にと辞退する。標準装備のトイレ・テントも運んできたが、それは私が使うだけのためと知り、建ててもらった手前、一度だけ使ってカルカに預けてもらった。

Photo518 左:Manaslu、右:Ngadi Chuli(P29)

Photo519 Annapurna 山群に朝陽が当たる

Photo520 Machhapuchhre東面

Photo521 Annapurna Ⅰ 峰の南陵

Photo522 右端のLamujung Kailas左にAnnapurna Ⅱ 峰

Photo523 左の最高点がKang Guru Ⅰ

Photo524 C2とHimalchuli(中央が西峰、主峰は右)、中央右のBaudaから険しい稜線が続く 

 尾根道は、巡礼道らしく美しい石畳が敷き詰められ、歴史を感じる。放牧地と森林を交互に、高度をあげつつ展望を楽しみながら歩いた。この尾根を登山隊として利用したのは、1955年にTilmanの情報を得たUK隊(西峰下のCooks Comで敗退)ぐらいだろう。羊飼いに聞いても巡礼者以外は数年に1パーティ、それもNepal人以外が歩くことはまず無いようだ。残念ながらDhaulagiri やHimlung Himal、Ganesh山塊を展望することはできなかった。

Photo525 新人ポーターの荷造り

Photo526 尾根上は展望が効き、気持ちが良い

Photo527 標高は3,000m近いけれど汗が流れる

Photo528 Nomrodhu Dandaで大休止、シャツを乾かす

Photo529 森林帯の古道、家畜が通るので草も無い

Photo530 誰とも出会わずに静かな古道をひたすら歩く 

 最奥となる小さなHindy寺院が鎮座するBara Pokhariで昼食とする。Tilmanの記述と同じだが、巡礼者の小屋はあってもPokhariに向かったベンチはなかっただろう。Pokhariの水は腐植により薄く色がついているが、沸かして仕舞えば問題は無い。放牧する山羊や羊を侵入させないため、石垣が取り巻いている。昨日と同様に昼食時は水場近くで2時間程度の滞在となる。燃料はKibiが担ぐドッコに載る中型プロパン・ボンベ、コンロも複数台あるのでキッチンは多彩なメニューを披露してくれる。食後に配膳のLakpaがデザートまで届けてくれるとなると、山中に居ることを忘れてしまう。そして、あっという間に手際よく撤収、先に歩き出していても、すぐに追い抜かれ、風のように過ぎてゆく。体力、脚力を競うつもりは毛頭無いが、全く敵わない。二人の新人ポーターも山歩きは普段のようで、少し量の大きな荷物に慣れてしまえば何の不安も無い。キッチン頭のJangbuに至っては、その辺の市場からの買い物帰りのように卵のカートンを片手にぶら下げながら消えてゆく。

Photo531 Bara Pokhariを過ぎても古道は続いた

Photo532 最奥となるHindy寺院がPokhariに佇む

Photo533 野外キッチンの営業開始、荷物の山

Photo534 昼食のパンケーキとタルカリ

Photo535 サクラソウ(プリムラ)今回の行程では此処だけしか咲いていなかった

 Bara Pokhariを過ぎると、次第に石畳が減り、足跡が残る放牧道に姿を変えた。冬に向かうこの時期、花々は僅かだったが、長谷も吸われたジュカ(ヤマヒル)に気を使う必要はなかった。

Photo536 幅の広い尾根部は庭園のように美しい

Photo537 昔の樹林帯は放牧地に姿を変えている

Photo538 樹林帯での一時、近くに地蜂の巣 

Photo539 メンバー12名、全員が揃った唯一のshot、Chyarbo dandaの手前

 C3は3,500mを越えたChyarbo dandaの巡礼者小屋近くである。ここからもHimalchuliの上半を望むことができた。香川労山隊の歩みを辿れない分、Himalchuli南西面が見えると近づいていることが実感できるし、二人と会話もできる。ほぼ北東方向に進んでいるので、山々の配置は変わってもHimalchuliの姿だけが大きくなってくる。何よりもTilmanと同じ道を辿っていると思うと感慨深かった。設営と水汲みが終わると、ポーター頭のKajiが、ポーター達に枯れ木を集めることを指示した。私も直ぐに加わり、皆が集めた枝を太さ毎に分け、AACH流の焚き火を伝授するのだが、ポーター達が衆目する中、乾いた薪にその必要はないようだった。白く立ち昇った煙が青くなり、やがて無色となる。暖かさ、弾ける音、煙と匂い、小さな「迎火」を灯すようにも感じた。商業トレッキングではベッドやシャワー、テーブルでの食事、Wifiはあっても、静かなキャンプや焚き火が楽しめないことを思うと、今回のOld Styleは既に文化遺産に近いのかもしれない。Rajuからは、今回のメンバーのことを教えてもらう。昔Rajuがポーターを働いていた頃、雇ってくれたのがKajiやJangbuであると言うのだ。昔からの仲間とRajuの故郷の新人は部族が違えども皆打ち解けている。Nepal国の民族問題は個々では支障がないのだろうが、大勢の社会となると様々な軋轢がある。これは人間共通のことなのだろう。

 C3に着いてから感じはじめた軽い頭痛は、高山病より熱中症によるものだと判断し、水分補給に心がけ鎮痛剤で誤魔化した。出発前に志賀から「高度順化には、一旦登った後に少し下って泊まることが有効だけど、今回は登るばかりの行程なので気をつけろ」と心配してくれた。そんな時は休養するよと返したことを思い出しながら微睡んでいると、夜間の尿意と小用は歳のせいもあるのだろうけど、面倒だなー、うーっ寒い。これも、Old Styleである。否、Old Man Styleなのだ。

Photo540 C3から焚き火を始めた

Photo541 少し離れたカルカの番犬が走り回る

Photo542 放牧地のキャンプは快適だが、水場が遠い

10月14日 Chyarbo danda→Positu C4 (EL 3,800m)

 C3朝、テントには霜が降りていた。晴れた空に陽を浴びる前の山々を展望する。寒いので、歩きながら展望場所を探す。Manasulの山頂に陽が届き、次々とそこより低い山々に当たってゆくのが分かる。南西面に居るので、陽は山際を輝かせてゆく。HimalchuliはLekの高まりに重なるため、C3から少し離れたぐらいでは頂稜付近しか見えなかった。C3に戻ると、昨日からの私の体調を聞き取った Rajuは一日の休養を勧めてくれたが、血中酸素濃度87%なら今日の高度に問題は無いだろう。新人ポーターが示す95%は、若くて元気な証だ。標高1,400mのSankhuで1ヶ月近く、歩き回っていたのは少しは役立っているかもしれない。この年、モンスーン開けが遅く、不安定な天候からも先を急ぐ必要を話し、それをRajuも了解してくれた。

Photo543 Manaslu山群の稜線とテントにも陽が当たる

Photo544 左からTulagi、Manaslu、Ngadi Chuli(P29)

Photo545 Ngadi Chuli(P29)世界20位、日本隊の登頂者が滑落死している

Photo546 昨日の夕方に見えなかったMachhapuchhre

Photo547 Annapurna Ⅱ 峰からの長い頂稜が見える

Photo548 西のAnnapurna山群に雲が増えてきた

Photo549 Manaslu山群は青空に映える

 各種の庭園を巡るような美しい尾根道は次第に植生種を減らし始め、広い草原が点在するようになった。期待したManasul山群は雲が巡り出し、大展望とはならなかったが、Tilmanからの情報を元にLekを利用したUK(ケニア)隊が撤退したと思われる岩峰群を望むことができた。私以外は朝食を摂っていない。途中に水場も無いので、昼食は今日の宿泊地となる。少しは足しになるのではと思い、背負って来たナッツ類1袋を皆と分ける。Tilmanは訪ねる予定のIndiaグルカ連隊員を探す中、西のMusi Khola側の放牧地に迷い込み、西から尾根を乗っこしてMeme Pokhariへと至っているので、この辺りで彼とは違う道を辿ることとなる。

Photo551 Chyarbo dandaの草原、山羊や羊の鳴き声が聞こえてきそうだった

Photo552 Chyarbo dandaの巡礼者小屋、Subasがシュラフ無しで寝ていた

Photo553 C3出発時にはAnnapurna山群の雲がさらに増える

Photo554 Manasluは笠雲の中、Ngadi Chuliも次第に雲中へ

Photo555 Annapurna山群を眺める巡礼者、クライミングザックは満杯

Photo556 休憩中も楽しい一時、ネパール語は分からないのだが

Photo557 Himalchuliの頂も雲に覆われてしまった。帰路の展望に望みをつなぐ

Photo558 Himalchuliの南西壁、二人が眠る場所が近くなってきた

Photo559 庭園の管理人は山羊と羊、ヤクも居たのだろうか

Photo560 庭園の中を巡礼道が伸びてゆく。石畳の配置にすら意匠を感じる

Photo561 支尾根との合流前だが、次第に霧が辺りを覆い出す

Photo562 大展望を期待したが叶わず。白と茶色の間にMeme Pokhariがある

Photo563 中央の黒い稜線をTilmanはMeme Pokhariへと向かったのかもしれない

Photo564 ケニア隊が退却したのCooks Comとはこの辺りか

Photo565 支尾根と合流する手前の草原地帯、次第に緑から茶色の世界へ

 Bara Pokhari Lekは南西方向からの支尾根と合流した後、アップダウンがはっきり分かる高山帯の尾根へと姿を変えた。Rajuが考えていたプレート設置候補地点のKomro DandaからのHimalchuliも雲の中であった。帰り道で晴れたら、考えようとその先を急いだ。ここからはDordi kholaが右下方にあるのだが、その流れは見えず音も聞こえない。骨組みだけとなったカルカは、草地と水場を求め尾根から東側の傾斜地へと点在し奥へと続き、巡礼道がそれらをつないでゆく。草は枯れ、既に牧童や山羊、羊も山を降りてしまった。体調は快調とは言えなかったが、多くの人のことを思いながら歩けることは幸せだった。次第に視界が悪くなり、前後の距離が伸びてしまう。それぞれの居場所はコールで確認しあい、宿泊地に先着したコールは下の方からだった。

Photo566 C4へ行くのに少し上がり過ぎた様だった。コールを聞いたSubasuが下から迎えにきてくれ、50m程降る。

 C4のPosituは既に無人となったカルカ、ここからHimalchuliは望めないが水と薪は容易に確保できた。遅い昼食の支度が始まった。昼食後は焚き火を囲んで過ごす。薪を集める客を皆が面白そうに見ている。西洋人はこんな事はしないのだろう。Tilmanの一連の記述にも水浴はあっても焚き火で寛ぐ場面は無かったような気がする。

 一人客の食事は孤独なテーブル席かシートの上だった。Rajuの主客である欧米人はポーター達とは交わらないだろうから、私はメンバー達とはこちらから関わるようにしてきた。疲れもあり食が進まないので、Jangbuには夕食は油の多い洋食系より先月来食べ慣れたダル・バート・タルカリを頼み、キッチンテント内で食事したいと伝えた。Rajuはいつもとは違う客の対処に困ったようだったが、メンバー達は快く受け入れてくれた。Subhasが肩に担ぐテーブルの役割は荷物置き場となった。キッチンテントに私の居場所が定まると、これまで気づかなかったことが分かってくる。まず、彼らが食べるご飯の量に驚かされる。私の倍を盛って、その後さらにPernbaにお代わりを求め、圧力鍋はいつも早々に空となった。全くもって、これではパワーが敵わないはずだ。私が米食を好むことが分かると、Pernbaとは「Nepal人と日本人は同じだ!」が挨拶言葉になった。

Photo567 カルカは骨組みだけが残される。水場が近いのでポーターも助かる

Photo568 揚げパンとタルカリの昼食

Photo569 キッチンテントと食事、陽が無ければ羽毛服が欲しくなる

Photo570 富士山の頂上より高い所での焚き火、薪の調達も簡単だけど、カルカの骨組みを燃やしちゃいけないよ。

10月15日 Positu→Meme Pokhari C5(EL 4,370m)

 この日もテントには霜が降りた。好天を期待させる朝だった。

Photo571 霜の朝、ようやく朝日が稜線に当たる

Photo572 簡単な朝食だけど、温かい飲み物が体にスイッチを入れてくれる

Photo573 巡礼路は草原から岩場の傾斜地となり、高度とともに最後の試練を与える

Photo574 左からポーターテント、真ん中のカルカ内にキッチンテントとKaji(ポーター頭)テント、そしてRaju兄妹と私のテント

 最終キャンプ地までは、前日と同様に尾根の東側となる傾斜地を等高線沿いにたどるのだが、支尾根の張り出しの度に迂回するので、歩行距離は伸びても水平距離が稼げない。出発時は稜線までの見通しが利いたが、次第に山霧に包まれ、Dordi kholaも見えなくなっていった。転石帯のなかで目印となる小さな石積みを探しながら歩くことが多くなり、風音だけが通り過ぎ去る岩陵の峠を越え、1箇所だけあった急崖の上りでは、Kajiが手を貸すため待っていてくれた。

Photo575 束の間の晴れ間は既に無く、雲が広がり出す

Photo576 C4を見下ろす。C7のカルカがさらに左下に見える。

Photo577 傾斜地は放牧地でもあるのでモンスーン時期は緑一色となる

Photo578 幾つかの岩稜地帯を過ぎる。小さなケルンを探しながら。

 気温の低下に消耗しながらMeme Pokhariの手前、巡礼者小屋をC5とした。片側を開放した小屋中の小さな焚き火で暖をとる。流石にこの標高となると、灌木しか燃料の材料は無い。私だけが外のテントでの滞在となる。Meme Pokhariはここから近いが、この天候では視界は期待できなかった。

Photo579 最奥の巡礼者小屋と巡礼者のテント、水場は少し上がった窪地

Photo580 冷えた体を遅い昼食が内部からエネルギーとなって温めてくれる。

 夕食後、寒空の稜線から明日は満月となる月が昇ってきた。気温の低下とともに雲は消え、月明りのHimalchuliが荘厳な姿を現した。藤田さんへの追悼文にあった月明かりの一節を思い出す。遭難前夜、彼はメールランナーに無理して届けてもらった婚約者からの手紙を読んでいた。長谷は例の調子で藤田さんを冷やかしていたのだろうか。主峰は月が南中に向かう中で煌々と輝き続けていたが、最後の夜となった登山隊C2どころか、二人が眠る場所も望むことは出来なかった。

Photo581 満月の一日前、月明かりにHimalchuliが荘厳な姿を現す。友が眠る場所は左下の雪の無い支尾根に遮られる。

 明日はいよいよMeme Pokhariに行ける。どんな追悼をしようかなど考えもしなかった。行ければ良いのだ。夜半に2回程、氷壁が崩壊する音が谷間に響いた。

7.3.6 Meme Pokhariの湖畔にて

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