7.3.4

巡礼報告

7.3.4 巡礼計画

 追悼行の準備をすすめるとNepalでは徒歩旅行者の事故、行方不明、それと観光産業の育成を目的とする政策により、個人トレッキングが難しくなってきていることが分かった。トレッキング許可書の取得とガイド同行が公式に求められている。地域によっては、トレッカーは2人以上と、さらに厳しい入域条件が付加されている。Himalchuli南域は北域と違い自然保護区域では無いため、厳しい条件はなかったが、トレッキング対象域では無いことから、私は企画してもらえる国内ツアー会社捜しに難航していた。小回りを期待して、小さなツアー会社と連絡していたが、次第にツアー会社からの返信は滞り、消えていった。そんな時分、長谷と交差した毛利から、現地に詳しい友人N氏(イッテQ!登山隊)の情報が届いた。中村(76)からは古いトレッキングマップが届き、構想していたMeme Pokhariの名前から、ツアーを主催するNepalの会社を捜してくれた。毛利情報の長谷が偵察行でも辿ったDordi khola左岸沿いの道は、その後の水力発電所建設工事により車道が奥まで伸び、短期間でBCへ行けるそうだ。BCからの二人が眠る場所までは、3.5kmと近い。しかし、報告書にあった写真からBCからの南西壁は、真下から見上げる位置だけに全体の把握が難しいと感じた。ネットに散在していたMeme Pokhariの写真や映像は、ほとんどがモンスーン時期の巡礼期間のため山霧に覆われ、南西壁の眺望に懸念はあったが、二人を追悼するに相応しい神聖な雰囲気は感じることができた。なにしろ、巡礼地なのだから。二人が眠る場所は、そこからまだ北北東へ7kmも離れてはいるが行こうMeme Pokhariへ、私は目的地を決めた。

 私は中村から聞いたNepal Kailash Trekking Pvt. Ltdへ「トレッキングの予定はあるか?、一人参加は可能か?」とメールした。直ぐに社長のRajuから「予定は無いが一人の開催は可能、でも高いよ!」と正直とも思える返信があった。短期間にありったけの質問とそれに対する丁寧な返信、メールのやり取りを重ね構想を計画とした。Rajuの会社がNepalガイド協会の構成社であること、ブラックリストに載っていないことも確認した。ツアー会社の中には、トレッキングが始まると客の食事に薬物を混入させて体調を悪化させ、緊急だと騒ぎたてヘリコプターを呼んでは下山させ、客の保険から払わせた高額なヘリコプター費用から分前を受け取る悪質な事例があるらしい。ツアーは開始しているので、当然、客への返金も無い。悪質な会社は事態が噂されると、解散、その後また新しい会社を設立させると言う。

 Rajuの名前の後にはGurungが付くことから、彼がGurung族であることが分かった。ガイド業はSherpa族だけでは無く、Gurung族も行なっていることを知った。目的地はRajuの生まれ故郷にも近く、地域に知り合いもいる事は有り難いことだった。ある時、私はRajuに「氷河に眠る二人のことをどう思うか」と尋ねてみると、「二人はHimalchuliの神に捧げられた神聖なものだ」と返ってきた。Rajuが属するGurung族は仏教徒と聞く、ならば輪廻転生を信じているのだろうか。そして多くのシェルパやポーター達も登山隊と共に遭難していることも思いの背景にあるのだろう。私がRajuへの親しみを感じ始めると、Rajuは神聖な二人を巡礼しようとする私に興味を持ち、巡礼行のガイドを務めると申し出てくれた。Meme Pokhariへのトレッキングは7、8月にNepal内の巡礼者を対象としている。我々は、Rajuとつながる現地ガイドからの情報を基本に、Meme Pokhariでの追悼日を設ける計画とした。

 7月初旬、100周年への話題が集まる「北大山の会」の総会時、私は志賀に「100周年より長谷の追悼が大事だろ」と愚痴をこぼしたら、100周年に向け部報を読み込んでいた志賀からは、「これまでの多くの遭難が、それぞれの生き方に影響を与えてきた。そんな100年でもあるのだよ。」と宥められた。確かにペテガリ遭難のコイカクケルン再建山行時(会報61号p.5)、コイカクシュ札内沢に集ったメンバーと小雨の焚き火の中で過ごした時間には感じることが多かった。初めてお会いした内田(ダーキー)さん(35)は唯一人、雪崩から生き残ったメンバーであった。ダーキーさんと二人、再建本体と別れて帯広駅で食事をする間、彼がシベリア抑留を経験されていることを伺った。もっと詳しくお聞きすべきだったが、ペテガリ遭難での経験が過酷なシベリア抑留を生き抜いた一つの支えになっているのだと感じた。もう北海道の山を登ることは無いだろうと言われるダーキーさんとの手紙やメール交流の中で、PCソフトで山の展望を楽しんでもらった。ダーキーさんも既に鬼籍に入られ、昔の仲間達と会うことができただろうか。AACHでも遭難の関係者は、それぞれに継続的な追悼を行なっている。それぞれ自身の為に。私も既に50年を濃淡はあれAACHで過ごしてきた。長谷は、AACHの山行では無かったこと、海外での遭難でもあったことから、追悼行が計画される機会は無かった。尤も追悼は他者に強要する話でも無いことから、100周年のことは他者に任せ、私の追悼行を実行すれば良いだけなのだ。

 巡礼計画ができた段階で、私は同期やその前後、香川関係者を募ってはみたが、関心を示してくれても三ヶ月先に迫るし、国内行とは勝手が違う。森田さんは久しく山を登っていないので、歩き通せるか不安だと断念し、小泉さんは股関節手術後のリハビリ中で無理はできなかった。毛利は撮影仕事があるようだったし、中村は既に10月からの南米バイク旅を計画していた。私は、Rajuから1~2名の追加でも料金に大差は無いと聞いたので、ゲットー君(88)を通じ、現役には無料トレッキングとして伝えてもらったが、彼らの学業環境も厳しいようだった。それでも興味を持った金子君と渡邊さんが居て、2年目の渡邊さんは思案して樋口(80)パーティ(part2)とLangtangを歩く展開となった。当初から一人でも行くつもりだったので気楽ではあったが、同行者が居ないことは何かと心細いものだ。そんな私の不安は、関係者と連絡を重ね、追悼文を読むことで皆の二人への想いとともに歩くのだと思うようになった。パスポート申請、3ヶ月の滞在ビザ、旅行保険を手配、ツアー社への送金はWISEを初めて利用したが、信頼できるシステムであると評価できた。Sankhu滞在費や諸々の資金は2023年のアルバイト支給が予定通り原資となった。

 前に述べたダーチャ・マライーニさんの講演が6月中旬に北大農学部で開催され聴講した。その頃、彼女はAACH(有馬洋氏など)と交流を持つ父親のフォスコ・マライーニ氏は、彼女の風邪により入山が遅れたことがペテガリ遭難の命運を分けたかも知れない(会報100号 p.13)と、度々その話を聞かされうんざりとされていたそうだ。講演では「記憶とモニュメント」の話が印象に残った。コイカクシュのケルン再建に参加されたダーキーさんや橋本さん(36)は、遅れて入山したフォスコ・マライーニ氏や大樹で開拓する坂本直行さんと仲間を捜索しているが、残念ながらダーキーさんから詳しい話を聞く機会は無かった。追悼を記憶として残すにはモニュメントが有効だからコイカクケルンが存在しているが、Meme Pokhariの現地状況は判らない。仮にケルンを積めたとしても携わった者以外にその意味は伝わらない。ならばと、私は文字プレートを設置することとした。東急ハンズでステンレス板にレーザー印字ができることを知り、厚さ2mmの板を調達した。てっきりレーザーで刻印すると思い込んでいたのだが、それは特殊塗料の焼き付けだった。耐候性の持続期間に懸念はあったが、時間と費用の制約もあった。プレートの最終案は、関係者にも見てもらった。漢字とローマ字で二人の名前、生きた日々、そして「雪の峰(Himalchuliの語源)に抱かれ、安らかに眠りなさい。そして、いつの日か、また逢いましょう」をNepal語で記した。RajuにもNepal語を事前に確認してもらったが、Kathmanduで一文字の表記が間違っていることを知った。修正はできないが、意味は通じるとのことなので良しとした。生きた日々はNepal歴を使えば良かったと思ったのは、印字した後だった。プレートにはQRコードも印字し、遭難の事実と二人のことが辿れるWeb Siteを用意した。リンク先は、私のレンタルサーバーでは時限があることから、澤柿教授(85)にAACHドメインにサブドメインを設定してもらった。Web Siteには、日本語からネパール語と英語の変換機能も付加してNepalの人々にも読んでもらえる様にした。AACHとは何の関係を持たない悪友のSは、そんな話を聞いて何を思ったかプレート作成にカンパしてくれた。

ステンレスプレート Nepal語は「雪の峰(Himalchuliの語源)に抱かれ、安らかに眠りなさい。そして、いつの日か、また逢いましょう」、QRコードのリンク先 https://aach.ees.0g0.jp/hase/

 函館の盂蘭盆は7月13日、家人の実家の墓仕舞いをその年の秋に予定していたので、これが最後と二人で出かける。1週間後、今度は金沢の私の先祖の墓仕舞いと永代供養のため金沢へと行くが、その前後に剱岳を目指した。4年前の源次郎尾根の敗退(2峰アップザイレン後に時間切れで長次郎谷下降)していたので、再度福井さんと別山尾根を計画するが、悪天のため剱御前までしか行けなかった。金沢での法要後、高校同級生と懇談した翌日、単独で再度剱岳を目指すため雷雨の雷鳥沢を罰ゲームの如く登るが、翌日は視界が効かず前剱で引き返した。頂上が遠い。長谷は本州の山には関心が無かったようで、槍・穂高(夏)と赤石沢・赤石岳(夏)の2回しか無い。

 Himlung Himal隊のドクターを勤めたProさん(72)からは沢山の薬剤類の提供と土産は不要とカンパを頂き、志賀には関係者の連絡先を伝え、緊急時の対応を頼んだ。これで私の準備は整った。何一つ文句を言わない家人には旅行保険の証書とLineで連絡するからと言い残し、横浜の中村宅に前泊後、NPO作業の荷物とともに9月6日に羽田を発った。この年、「ライオン丸」は海に浮かぶことなく、地下物置で眠り続けた。

7.3.5 巡礼のはじまり

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