7.3.3

巡礼報告

7.3.3 巡礼構想

 長谷だけの追悼では長谷が許さないであろうことは私も分かっていたので、K1購入後も時折連絡していたW氏に香川県の登山組織への伝手を聞き、連絡をとり始めながら追悼行の構想を始めた。何一つ具体的な進展が得られない中、2024年6月「レーン事件を考える会」(事務局のOkuさんとは札幌市内で養蜂活動をしたことがあった。彼女は木下さん(66・六の沢で遭難)と教養同期、養蜂メンバー5人中の最年少のOgaさんは奥田君(85・ナナシ沢で遭難)と教養同期だった。5人中3人がAACHの遭難に関係していた。)がレーン事件の時に北大に勤務していたフォスコ・マライーニ氏の娘ダーチャ・マライーニさん(会報134号p.37)を招聘する新聞記事が目に留まった。同時期、山と文学に関する展示が北海道文学館で開催され、立ち寄った際、学芸員から更科源蔵氏が所有していた札内川十の沢遭難の追悼本「義一」に挟まれていたと言うペテガリ遭難時の新聞記事を読んだ。記事には先日知ったばかりのフォスコ・マライーニ氏のことが書かれていたことに驚いた。自宅に戻って微かな記憶から今村昌耕さん(37)が書かれた会報記事を改めて読んでみた。何か一つの歴史を辿るようでもあり、この話題に興味を持った。翌日、学芸員に電話して文学館で読んだ新聞記事のコピーが欲しいとお願いしたら、「そのような要望にお応えすることは無いのですが」と前置きされたが既に展示資料の関係で矢野さん(67)と面識があり、展示終了後に山岳館へ行くので、その時にコピーを届けると言ってくれた。後日、そのコピーを見に山岳館へ行くと、いつものように居る矢野さんに何気なく捜していたHimalchuli遭難報告書ことを話をしたら、その本は森田さん(73)が知っていると言うでは無いか。この日打ち合わせに来た森田さんは、トラック一杯分の慶応大山岳部(1960年Himalchuliに初登頂)OBからの贈書にあった遭難報告書を既にリストアップしており、あっさりと書棚から渡してくれた。春以降、香川岳連関係への報告書閲覧依頼に回答は得られず、国会図書館と信州大学図書館に蔵書があることは調べていたので、長野に住む江島君(79)に信州大学からの貸し出しをメールで依頼したところだった。江島君は、部報14号に掲載する追悼に長谷の写真を香川まで取りに行っている。後日、その時にはKa登攀隊長にも会っていることを聞いた。

 山岳館から貸し出してもらった遭難報告書を一通り読み終え、その中にあった隊員名簿を頼りに、私は不安を抱えながらも関係者へ連絡を取り始めたが、如何せん住所も電話番号も40年前の情報である。ようやく隊員の一人と繋がったが、遭難事故以来、他の隊員とは会ってはいないとのことであった。その気持ちとはある部分で同調できる。遭難とはそう言うものなのだから。きっと私は、40年前の忘れてしまいたい話を思い出させる嫌な事をしているのだろうなと思いながらも、めげずに隊員以外の関係者を辿ることで、唯一、隊員のK氏と連絡することができた。K氏は、長谷と藤田さんを6,100m地点のクレバス上にテントで覆って安置された方でもあった。長谷は転落の数分後に絶命したが、藤田さんは数時間耐えられた。その場には重症のKa登攀隊長、軽傷の隊員も居て、登山隊として生存者をC2へ降ろすこと(その後Kathmanduまでヘリ空輸)が限界で、二人の亡骸をBCへ降ろすことはできなかった。そして、二人のこともあり、今でも山を登り続けていることも伺った。遭難とは、周りの者にいつまでも影響を与える出来事なのだ。以後、K氏には香川関係者への連絡拠点としての役割を務めてもらうようなことになった。肝心な長谷のご両親、兄様の消息は残念ながら分からずじまいになってしまった。1979年の知床遭難後、私は同期のご遺族を訪ねた折に聞いた母親の言葉が忘れられず、その後はご遺族を訪ねることを躊躇するようになってしまった。否、それを言い訳にしていたのかもしれない。それがこの結果を招いてしまった。本当に申し訳ない。K氏が繋いでくれた藤田さんが所属していた「観音寺あけぼの山の会」のM会長は、たまたま交流のあった藤田さんの弟様に連絡を取ってくれた。弟様は10年程前に気持ちを整理するため、Himalchuliを観に行ったことも教えてもらった。連絡を取ろうとしていた長谷とDhaulagiriを登ったMi氏(当時8,000m峰を次々と制覇)が重い病となり、会話が難しいことも伺った。そして、何度かK氏、M氏、そして高松高校山岳部OB会のN氏と連絡をさせてもらっていると、追悼行を歓迎、支持する連絡と遭難報告書や会報にある追悼文をWeb掲載する了解もいただけた。

 私は、追悼行の構想は既にWeb Siteに掲載し関係者へ伝えてはいた。手持ちに長谷の写真がほとんど無いことに気がついた。今のようなデジタル時代では無かったので、山の写真自体が少ない。長谷の写真を仲間にお願いしたら、高橋仁さん(74)、末武君からファイルを頂いた。そして、改めて調べてみると7,894mのHimalchuliは世界で18番目に高い山であり、Elizabeth Hawleyが開発したThe Himalayan Databaseから算出した登頂率(登頂隊数7/登山隊数26)は27%だった。年々、登頂者数が増え続けるEverestに対し、27名しか登頂しておらず、13名(ポーター含む)の方が亡くなっている。2007年以降2023年までは登山隊の入山記録すら無い難しい山であることが分かった。The Himalayan Databaseには香川労山の事故のことも、藤田さんや長谷の名前、山行歴も刻まれていた。生前のElizabeth Hawleyとは、Himlung隊の丹羽隊長(61)や樋口君(80)が直接取材を受けている。毛利からは彼女を取材した経験があることを聞いた。Databaseでは1982年12月のDhaulagiri隊は冬期とご丁寧に表記されており、新たに厳冬期というジャンルを作り出して別の隊名を掲載している。1982年当時、Nepalでは12月~1月を冬期としか定義付けていなかったからであろう。

 山岳館の蔵書にあったHimalchuliの遠征本3冊を借りて読み終えた後、その延長で何気なく手繰った深田久弥著「ヒマラヤの高峰 I」のHimalchuliには、英国人のTilmanが1950年(この年フランス隊が人類初の8,000m・Annapurna Ⅰ峰に登頂している)にAnnapurna IV峰試登の後、Kathmanduへの帰路にHimalchuli偵察のためMarsyangdi川Kudiの上流にあるUsta村から、Bara Pokhari Lek(大きな湖の尾根)の巡礼道を辿り、Meme Pokhariへ至ったことが書かれており、Meme Pokhariの描写もあった。就職後に勢いで購入した三巻本が初めて役に立ち、構想ルートの一つが出来た。情報源のTilman著「NEPAL HIMALAYA」から9月に訪れたこと、その前にはBimtakhoti(現Bimtang)付近での転落による怪我もありHimalchuli行を ー 罪と怠惰から身を浄める目的で行う旅行 ー と定義づけていた。何か重なる気持ちにもなった。ちなみにTilmanはBimtakhotiからHimlun Himalを偵察しているが、現在は中国との国境確定時にNemjungと名称が変更され、さらに北へと移された新たなHimlun Himalは1992年に北大隊が初登頂、近年はフランスのツアー会社により7,000m級の登山学校化して既に100パーティ以上が登頂するようになっている。

7.3.4 巡礼計画

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