7.3.2 空白を埋める
その後の長い空白、私は長谷の命日や他の幾つかの追悼山行に加わっては、長谷の追悼行を考えることもあったが、具体化させる芽すら生めなかった。2018年、私が経済事件の有罪判決を受けてから10年が過ぎ、再びKayakを漕ぎ始めた頃、秀岳荘白石店(札幌のOutdoor用具店)の柱の陰にK1 Expedition(Feathercraft社 遠征用の Folding Kayak)の小さな張り紙を見つけ、所有者の帯広に住むW氏へ連絡してみた。艇はまだ手元にあるとのことだった。私自身もそうだとは思っていたが、K1を良く知るニセコの新谷さん(酪農大学山岳部OB・Kayak Guide・知床エクスペディション主催)に相談すると、「お前にはOver specだ」とはっきり言われてしまった。塩谷のBlue Holic(Kayak Guide)のKat氏からは、「もう手に入らない艇だし、値段は同額での再販も可能だろう」と聞いた。確かにVancouverにあった製造会社も無くなっており、見るだけでもとW氏へ再び連絡した。札幌に用事があるとW氏は、組み立てたままの艇を車の屋根に乗せてやって来た。艇をMS近くの小公園に下ろし、状態の説明をしてくれた。会話をしながらお互いが相手の素性に触手を伸ばしていると、W氏曰く「匂い」から、それぞれが大学山岳部に所属していたことが分かった。すると、W氏は「長谷を知っているか」と尋ねてきて、私は耳を疑った。そして「長谷は同期です」と怪訝な気持ちで返答した。
長谷は私がAACHに入部する前年の1975年に一旦入部し、春山合宿に参加している。合宿後、希望する学部学科への移行を決めるため学業を優先する判断から退部、優秀だったので移行先を工学部土木学科への目処を付け、1976年春に再入部している。戸田君(77)からは、長谷本人は土木学科を希望していたが、建築学科の秋葉(73)さんの勧めがあり、建築学科へ移行先を変更したらしい。その建築学科が後に長谷を追い込んでいったのは皮肉なものだ。山岳ガイドだった信州大学山岳部OBのW氏は、ガイドとしてMcKinleyへ11回、単独でCho O-you、Everest2回(中国側ルート8,200m迄)を経験していた。次の目標として、DhaulagiriとMakaluの推薦状を得るべく香川労山を訪ね、その日が偶然にも長谷の命日だったので遺族や山岳関係者と一緒に墓参したことを話してくれた。記憶の中の長谷が笑いながら呟く気がした。「おっめーなっ、つめてーんじゃねっ!」確かにそのとおりだな。K1は長谷が運んできたのだと、こじ付けて購入を決め、その事をW氏に伝えると、それ以上の長谷に関する話題は無かったが「譲るべき人に譲れた」と呟きにも似た言葉を聞いた。K1がOver specであることは自覚していたので、その言葉を素直には受け入難かったが「ライオン丸」と名付け、整備や漕ぐたびに言い訳を続けた。全長5mのK1は、長谷の追悼への小さな種だったが、まだ芽を出せるような状態では無かった。
私が入部した1976年の春合宿、再入部した長谷とはパーティが異なり、新入部員も多く、榊原(76)がスキーでBCを通り過ぎて行方不明となるような事件も無かったので、お互いさしたる記憶は無かった。大学の学祭を利用した六月山行も別パーティであった。学内に緑があふれる頃、夏山のパーティを決める時期が来た。新入部員が15名も居れば、上級生はパーティを編成するのが大変だったことだろう。既に教養学部の授業に絶望していた私は、部室に出入りする内に長谷と三浦(冬前に退部)と同じパーティになっていた。長谷は私より1年早く入学していたが、先輩風を吹かせることもなく、同期として扱ってくれた。私はその姿を見ることは無かったが、1年上とも飲みに行ったりしていた。準備山行のクワウンナイ沢で長谷は河原で転石を足の甲に落とし、痛い痛いと騒ぎながらも源流まで上り詰めた。その数週間後、再びクワウンナイ沢へ行った長谷に部室で会うと「あの時の俺の足を痛めた石に、しっかりと文句を言って来てやったぜ」と嬉しそうに話してくれた。夏、初めての日高の沢はメンバー達に強烈な印象を残してくれた。天場設営後の流木集め、雨の停滞での食事、晴れた昼の素麺、入れ食い状態の蝦夷イワナ、リーダーの燻製づくり、漆黒の夜に輝く大きな炎と火の粉、全て焚き火が中心の山行だった。そして、十の沢、六の沢と山で追悼することを初めて知った。九の沢のケルンの話も聞いた。六の沢から十勝幌尻岳を目指したので、コイカクシュサツナイ川のペテガリ遭難やコイカクシュ遭難の話を知ったのはまだ先だった。そうやって次第に我々は山岳部の山登りに染まってゆき、同年9月13日に開催された山岳部創立50周年記念パーティの集合写真には、長谷の立髪が咆哮していた。

Photo201 1976年8月 七ツ沼カール、毛糸の帽子は保護帽の代わり
夏の日高に魅了された長谷は、1年目の年末年始も日高で過ごした。2年目の夏も日高、四国の山々を歩いてきた長谷は、日高の長いアプローチ、他のパーティとも会わない静けさ、人手のつかない山々に魅入られていった。その頃、私は北18条東13丁目に下宿しており、長谷は北18条東8丁目に住んでいた。教養部の近くにあったプレハブ部室からの帰りに長谷の下宿をいつから寄るようになったかは記憶が無い。1年後に高校後輩の原君(1982年理地鉱教室で卒論作成中に急死)、大阪出身の中谷君が入部し、長谷と同じ下宿に住むようになった。その頃、既に三人には渾名がついており、長谷の怒髪がライオンの立髪に似ていたことから「ライオン丸」(当時のTV番組のヒーロー?)、原君の度の強い眼鏡とゆったりとした口調と仕草から「カメレオン」、中谷君は自身の高校時代の渾名を披露し「チンパン」となった。そのため三人が住む下宿を我々は「動物園」と呼んでいた。原君か中谷君が部活動に疑問を持ち、退部を言い出した頃、お節介にも動物園へ行き、お好み焼きパーティを開いた記憶がある。長谷と私は、部活動が如何に意義あるかを偉そうに説いていた気がする。私は3年目春に北大正門近く(中島みゆきの歌にある喫茶店「ライフ」は「ニューライフ」となっていたが、自転車屋はまだあった。)に移り、その頃には動物園のメンバーも別の下宿に移ってしまい、長谷を訪ねることは無くなってしまった。
1978年の正月早々、私が2年目の冬の日高から意気消沈して部室へ戻ると、先にいた長谷が「やっちまったぜー」と関西系(私にはそう思えた)の明るいノリで嘆く、すかさず私は北陸系の陰鬱で「俺もだよー」と返した。お互いのパーティは計画を貫徹することができなかった。長谷はアイゼンのジョイントを破損させ、私はアイゼンの不良改造で滑落していた。それぞれのリーダーは氷化した稜線でのメンバー負担を考え、下山を決めた。2年目の春は、長谷は日高の積雪期に拘り、リーダーの東さん(74)のアシスタントとして、襟裳岬から北の豊似岳までを歩いた。常に先頭を歩き、小雪のハイマツ帯をスキーで軽やかに進んでいった。夏もそれぞれがパーティを構成し、日高の沢で過ごした。一年目の夏以降、長谷とは沢登りパーティを組まなかったので、赤岩(小樽の岩登りトレーニング場所)を一緒に登ることは無かった気がする。しかし、二人にとって3年目の冬は日高しか考えられず、1年前の苦い記憶が二人を結びつけた。ところが準備山行中に長谷は小雪のハイマツ帯にスキーを取られて膝を痛めてしまい、二人の決意とパーティはあまりにあっけなく崩壊してしまった。

1978年12月 小積雪の中、美瑛富士を目指す 右端に長谷
残ったメンバーの大政(76・知床で遭難)とは糠平温泉からホワイト・アウトのウペペサンケから氷結した然別湖を縦断したが、下山後はつまらない正月の後味の悪さだけが残った。1979年春はそれぞれが目標を設定し、別パーティで入山していた時に知床遭難が起きてしまった。南日高から下山した長谷は、第三次隊として札幌から現地へと向かったが、既に仲間の遺体は羅臼町内に収容されており、その場に泣き崩れたと聞く。その後は誰もが遭難の原因追及に苛まれ、多くの時間を費やした。6月には遺族の方々と少しでも現地に近い場所でと慰霊を行ったが、明るく振る舞われるご家族の姿に逆に辛い思いが募った。我々は、これまでの追悼で山で死ぬことは知ってはいたが、身近で起こることは考えてもいなかった。長谷も山では死んではいけないこと、どうすれば死なないで済むかを考え続けたことだろう。
長谷は香川へ帰省する度に母校である高松高校の山岳部に顔を出し、山行や合宿にも参加していた。そして、北海道の山登りの楽しさを後輩に伝えていた。「日高の沢へ行けば、釣り針を入れた瞬間に岩魚が釣れるんだぞ」と言うと皆んな驚くんだぜ。そんな話を何度か休み明けに聞いていた。そんな影響もあって、原、今岡、宮井の三名がAACHに所属することとなった。悲しいかな、原君は卒業祝賀会の夜、学部教室に戻り卒論作成中に、宮井君は積丹からの帰りの運転中にそれぞれ突然死してしまった。
その後、私は長谷とは合宿以外では一緒に登っていない。部の検討会以外に山のことを話す機会を持たなくなってしまった。1981年、学業を諦め香川へ帰る前ですら、私は卒論提出と就職前の山旅を優先し、長谷の大きな変化を感じることすらできなかった。香川に戻った長谷とも連絡を取っていなかったのだから偉そうな事を言える立場では無い。にも関わらずか、それだけにこれまで何もしようとしない自分に後ろめたさだけは感じ続けていた。
私が次第にK1の組み立てにも慣れてきた2023年3月、春に知床遭難のショウジ川ビバーク地点で福井さん、末武君(78)、戸井君(78)と仲間を追悼した時(会報132号p.25)、まだ長谷が残っていることを改めて意識したが、まだ動き出すには熱量が足りなかった。そして、3月末に10年間お世話になったF社を退社した。年金の受給額は当然これまでの収入を大きく下回ったが、掛け替えのない自由な時間を手にすることができた。その後にF社から提示されたアルバイトは、まだ漠然とはしていたが追悼行への燃料になるはずだと考え、夏の間は足しげく調査現場へと通った。
同じ頃「北大山の会(AACHのOB会)」では2026年の創部100周年に向けての記念事業を検討し始めていた。そんな情報に触れた時、一つ分かったことがあった。「確かに100年の活動継続は容易なことでは無いし、それを記念することも意味があるだろう。けれど、長谷は忘れ去られたように異国の氷の中に居て、自分はこのまま100周年事業を平然と祝うことができるのだろうか。それは納得できないし、嫌でもあるな。」私は、これまで嫌なことから、逃避、故意の盲目をしても解決しないことだけは痛いほど学んでいた。そして嫌とは思わないようすることを考え始めた。また少し、燃料メータの針が振れた。
2024年3月、以前からJICA研修を手伝っていたコースリーダーF氏に誘われ前年に加入していたNPO「農業開発研究会」の打ち合わせで、Nepalでの現地作業の計画に触れた。これは、芽吹きなのだろうか。ならば、育てなくては私ができる追悼の機会は無いだろうとも思った。会長O先生のジャガイモの疫病予測を目的とした気象観測装置の再起動は、前の勤務先で独習したIoT技術が活かせそうだし、農業用水系統の調査もできると私はO先生とF氏に進言した。NPOが支給してくれる往復の交通費の問題では無く、自分には行動を起こすためのもう少しの動機、燃料への着火が必要だったのだ。なにしろ、札幌からHimalchuliは5,000km以上も離れているのだから、少々の熱量(燃料)では辿り着くことができないのだ。そして、5月のNPO総会で現地作業と私の参加が承認された。