7.3.1 遭難の知らせ
1983年10月6日、同期(1976年北大山岳部入部:以下76と記載)の長谷伸宏(ライオン丸)は、香川県勤労者山岳連盟(香川労山)によるHimalchuli登山隊の南西壁登攀中に遭難死した。(「北大山の会」会報56号p.8)私は、訃報を職場寮に残されていた福井さん(75)からの電話メモで知り、翌11日には、北海道新聞に掲載された隊員の藤田雅之さんと共に亡くなった小さな記事を見て、微かな誤報の望みを失った。その後、高松市内にある長谷の実家を弔問した中谷君(77)からは悲嘆に暮れ、登山関係者を快く思われないご両親の様子を聞いた。簡単な事故の状況と、ご両親の元に帰ってきたのは遺髪と割れた赤いヘルメットだけだったことも知った。
北大山岳部(AACH)現役の頃、長谷は海外登山には関心が無いのだろうと思っていただけに、Himalchuliからの訃報は驚きと共に意外でもあった。彼を知る仲間のほとんどが同じような感想を語ったが、1982年のポスト期にDhaulagiri(8,167m)の登頂を果たした香川労山隊の長谷(高度順化に失敗、7,500m迄)と交差して数日過ごした志賀(76)からは、以下の話を聞いた。「香川労山隊との邂逅は1982年10月22日、我々のキャラバンがポカラを出てから19日目、場所はダンパス峠手前のカロパニ(4,900m)付近。こちらはヒドゥンバレーへの隊荷輸送と高度順化中。労山隊は登頂を果たした帰りのキャラバンで、相応のやつれはあっても意気軒昂の様子。乾燥した高所に滞在すると喉の調子が悪くなることは珍しくなく、長谷が特に不調とは見えませんでした。北大隊にはさぞ旨い食事があるとの思惑は期待はずれだったようですが、ネパールの山中で、長谷・毛利・清野・志賀の同期4名が揃ったことはお互いに感慨深く、テントの中で話は尽きませんでした。未知の要素が多い冬の8,000mを前に、最悪誰か帰らないこともありえなくはない、という暗い予想が頭をかすめることはありましたが、長谷と話す最後の機会になるとは思いませんでした。」
毛利(76)は、長谷の逞しい姿を追悼文(会報56号p.14)に記している。高所で気管を痛めかすれ声の長谷は自身の敗退と同期との再会、その年12月の北大隊のDhaulagiri冬期初登頂に何を感じたのだろう。さらなる高みへの思いを強くしたのかもしれない。この時、小泉さん(74)は、労山隊長のKa氏(香川労山Himalchuli登山隊の登攀隊長・長谷の次に滑落に巻き込まれ重傷を負う)とDhaulagiriの登頂時期について話をしている。長谷は下山後、既に次の目標としていたHimalchuli南西壁を偵察するため、DumreからMarsyangdi川を上り、Dordi Kholaの左岸をBase Camp(BC)予定地まで往復した。高松に戻った長谷を訪ねた中谷君には、Himalchuliの計画を熱く語っている。そして、その年の10月に志賀や毛利の懸念は、一年を経ずして長谷に姿を変えて現実となってしまった。一度でも現役の時にAACHの遠征隊に参加していれば、その後の展開も違っただろうにとは思ったが、組織的な遠征は好まず、AACHの個人山行的な少人数での海外登山に傾注していったことも、亡くなった後から知った。
AACHの誰も事故の詳細を知らないまま時間は過ぎ、1992年のHimlung Himal隊はMarsyangdi川沿いをBesishaharからキャラバンを開始しているが、キャラバン路は現在の自動車道と異なるだろうし、谷沿いからHimalchuliを観ることは難しかったのかもしれない。それでも小泉さんは長谷の命日を手帳に記していたので、隊員らと共にHimlung HimalのBCから南東へ40km隔てたHimalchuliに追悼を行なっている。いつまでも詳細な情報が得られない私は、2004年ごろ長谷の高校後輩でもある今岡君(79)に存在さえ分からないHimalchuli遭難報告書の入手とご家族の消息確認を依頼していたが、高松高校山岳部部報「岳樺26号」の長谷追悼集を譲り受け、ようやく遭難時の状況を知るに至った。彼が眠る南西壁6,100m地点は、簡単に行けるような場所では無いことから、長谷のことは全て終わったことにしてしまった。