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追憶       35年度卒  鈴木久隆

(1)

 久保、菅生、名頃、僕にとっては何れも懐かしい祖谷の村落。

 その日、盛夏、夕立の後、まだ梢から雨滴がひっきりなしに落ちてくる中、僕は名頃の林道を一人で歩いていた。

 いろいろな想いが脳裏を巡る。 17才のときから20年以上、ときには少し間があいたとしても、とにかく登り続けてきた山、三嶺。 一人で登ればいささか感傷的になるのも致し方あるまい。

 頭上の木立が突然消えた。頂上直下のコルに出たのだ。もう本隊はとっくに夕食を済ませているだろう。一呼吸置き、ライトを取り出し、最後の登りにかかる。 阿波池田の街で買ってきたビールのアルミ樽が背中で弾む。

 「スズキ先輩」

 急に後から声がした。驚いて振りかえると、ライトの薄明りの中に、ガッチリとした若者のシルエットが.浮んでいた。暗くて顔もよく見えなかったが、 僕にはその声の主が誰だかわからなかった。

 「ハセです。 先輩」

 ハイピッチで登ってきたと思われるのに、息の乱れが全然ない。 これが彼を意識した最初のときだった。

 昭和54年8月4日、 西村先生追悼登山のときだった。

 その次の年、彼はガネッシュⅢ峰に登頂した。

 確か入山前だったと思う、 カトマンズから葉書が届いたのは。

(2)

 Uの結婚披露宴、 国民宿舎栗林山荘を借り切った大宴会。 二次会、三次会も時間を気にしないでやれるという新郎、新婦の細かい配慮に、酒で麻痺した僕の顔が大いにゆるむ。

 Uの大学時代の山仲間も来ていた。 僕も面識がある。 霧が流れる穂高岳沢でしばし行動を共にした。徳繁を高松で待つ彼の御両親のもとに帰すために・・・。

 二次会は新郎、新婦の友人たちが一室に集った。 何故か長谷はえらくはしゃいでいた。 東京からやってきた新婦の友人が自己紹介をやっているのに、 何やら声高にしゃべっている。 謹言実直なる元高校教師の僕は、 わざわざ彼の席にいって忠告した。

 「こら、ハセ。 お前も高々山岳部のOBなら礼儀をわきまえんかい。 うちのOBだけならともかく、ま他のお客さんもおるんやから」

 長谷は意外に素直だった。

 「ハイ」、「ハイ」

と一応は神妙な表情になった。

 僕は思う。 彼はこの日、何か思い悩むことがあったのだろうと。 しかし、彼と僕には14歳の齢の開きがある。 彼が何を思案していたか、僕は実際のところ理解していない。

 三次会、OBだけになったとき、彼は主張した。

 「山に対する情熱を失った者と僕はつき合う気はありませんよ。」

これが彼の本音であったかどうか、僕は未だに反すうする。

 Uの結婚式、 昭和56年2月7日から8日にかけてのことだ。

(3)

 巷は忘年会が盛りの頃、Aが結婚した。 今度は東京に彼の仲間が集った。 長谷もダウラギリの雪焼けを残した顔をかしこまらせて坐っていた。 披露宴がお開きになる直前、司会をやっていた僕は、彼がヒマラヤから帰ってきたばかりだということを、宴の客にちょいと紹介したのだが、そのとき彼に拍手を送ってくれたのが新郎Aの母上だったことを僕は今でも嬉しく思い出す。

 その後、例により二次会 H、V、 N、F、M、 そして長谷と僕がいた。 狭い居の中に山の写真がやたらと並び、 板壁にはアイスバイルが懸けてある。 店の主人が山キチなのだ。

 僕は眼の前の若い仲間達をみる。 とにかく僕だけが中年、 後は皆20代の連中。 他愛ない話が続いた。細かいことはもう記憶にない。 ただ、長谷が、

 「今度は是非OBだけでヒマラヤへ行きましょう」

と熱っぽく語っていたこと、そして僕が彼にむかって、また、

 「こら、ハセ。 お前ヒマラヤへ行ったからといってうぬぼれたらあかん。 ヒマラヤへ行ったOBはもういっぱいおる。 お前も今後はもっと風格のある山ヤにならんといかん

と、じじくさく説教めいたことを言ったのは覚えている。

 昭和57年12月11日のことである。

 そしていま、彼はヒマルチュリに逝ってしまった。 だから僕はもう彼に何も言えない。 あいつのとぼけた表情を頭の片隅にしまっておくだけだ。

 生死の境、それは時の流れに風化する。 彼は彼、 僕は僕、行き着くところは同じだろう。

(了)

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