追悼 顧問 靱 俊男
秋たけなわ、行楽の体育の日の前日、香川県勤労者山岳連盟隊のヒマルチュリでの事故のニュースにヒマラヤの遠さを今さらのように身に感じると共に、どうすることもできない思いにいらいらするばかりであった。
思えば、長谷君との出逢いは昭和47年、以来10年余の月日、君のこれからの成長や、 今後の活躍を期待していたのに、あまりにも早く君は逝ってしまった。 今もって、本当なのだろうか、次のセルバスでの例会には、ひょっこりやって来て人なつこい笑顔で皆を煙に巻くのではないかと信じ難い思いで一杯である。
聞くところによると、今回のヒマラヤ山行には君は相当の熱情をかけて出発したようであり、それだけに、君の人生での一つの試練への挑戦でもあったのではないか。 より厳しい山行に、より厳しく自分を律し、より真摯に生きようとする努力をひたむきに続ける姿を見た思いがする。
私は、主として高々現役時代の君の言動や、 北大進学後も夏山、 冬山、 春山現役山行に駆けつけ、 後輩達をしごいてくれたり、時には愛しく、時には厳しく、時にはその人柄通りの軽さでもっての一語一語に、今あらためてその意味を見い出す思いである。 高高二年生のとき、部長として思うことというのが岳樺No. 16にあるが 「積極性のない者は山岳部には必要がない」、 「自分から進んで個人登山などで実際にやってみるとかして、 自分のものとせよ」といった叱咤する言葉が、 今私の胸に響きわたる思いである。 実際、君の山への取り組みは、年々その情熱を増幅し、さらにまた、 高松高校山岳部を愛することは誰よりも強く、 夏合宿の日高山脈の一コマよりの手紙や、厳冬の剣岳よりの便りなど、限りない思いを後輩達に届けてくれたものだ。
君は、飲むほどに冗舌となり雄弁となり、又人なつこさを見せ、又飲めば一見ずうずうしくもなるが、その実ははにかみ屋であり、 テレ屋でもあった。 陽気で明るく賑やかそうにしているが、実はさびしがり屋であり、本当に人恋しかったのは君なのだ。 そんな君が、 何を急いで、 この短い人生を終わろうとしたのか。 君が山を愛すれば愛するほど、 山が君の性格をめでしめたのか。
人は言う。 心から愛した山で、 山の懐に抱かれて永久に眠るとは本望であろうと。いや、君はそうではない筈だ。君にとっての生への証しこそが、 君が探し求めていた人生ではなかったであろうか。 生きるも一生、死ぬも一生、あとに残された者にとって、君の語り、君の叫びは心に刻みこまなければならない。
神よ! 願わくば、もう少しその語らいの時を我々に与えてくれてもよさそうなものを。 今はただ君の冥福を祈るのみである。