40年後の断片的回想: 長谷さんのこと 中谷好治
大学1年目の秋、入学からお世話になった東区の賄い付き下宿を出て、引っ越した先が長谷さんの住むアパートでした。広さは4畳半で、半分が布団を敷くために70㎝程高くなった建付け。同期の原君は少し早く越していた。僕自身は初めての自炊の下宿で、大学生活が3年目になる長谷さんは、なんでも知っていて里の生活のイロハを聞いた。コメの炊き方、食生活の買い物、学生らしい節約生活。お手本のようだった。
長谷さんの生活力の真骨頂が出たのは、1年目の十勝白銀層での冬合宿。長谷さんは食事係で、初日に天ぷらをメニューにした。「おいしいものを腹いっぱい食わせます」と張り切って計画し、楽しんで料理長を仕切る姿が長谷さんらしかった。
長谷さんはルームを一度やめて翌年入り直したので、Roomでは僕にとっては一つ上の先輩。カメレオンこと原君には、高松高校の2年上の先輩にあたり、原君は長谷さんに刺激を受けて北大・北大山岳部に入った。その2年後には同校から今岡君も入部した。
僕が引っ越したのは秋頃で、長谷さんは冬山に向けてランニングや体操をして体を鍛えていた。学業と山岳部を両立した学生生活をしているのだと思ったが、気持ちとしては山に傾倒していたのだろう。冬はじめに、スキーの練習に中山峠にも行ったことがある。
長谷さんは山岳部を退部した後にずいぶんスキーをやったらしく、パラレルは上手かった。札幌の西にある春香山スキー場に通ったと言っていた。
とはいえ、僕が長谷さんとよく話すようになったのは、僕が2年目になり夏山パーティで一緒になった時からだ。長谷さんは2年目の夏に南アの赤石沢、その後も先鋭的なパーティでの山行を重ねるようになり、その先にヒマラヤへの志向を強めていたのだろう。よく飲み、よく話した。山岳部の例会でもよく発言する人になっていたと思う。
山に一緒に行った機会は少なく、里での思い出は多い。僕が札幌に持ち帰ったYAMAHAの原付バイクを買い上げてくれ、3か月もしないうちにエンジンが壊れて乗れなくなったことがあったが、クレーム一つ言わない優しい人だった。一眼レフのカメラも買い取ってくれて、僕はそのお金ではやりの防水型のバカチョンカメラを買った。生活設計ができている人との印象が強い。
長谷さんが高松に戻ってから、ダウラギリが終わり、次のヒマルチュリ行きの準備をしている頃に訪ねた。自宅を出て、隊長の金沢さんの世話になって住んでいて、家庭教師をしながら生活していた。1日半程一緒にいて、屋島に連れていってくれた。「ダウラギリは明大の2人に頼ったけど、今回はスーパースターがいないから俺が引っ張らないと」と意気込んでいたのが印象に残っている。これが最後になった。
次は、遭難の後に実家で、写真と赤いヘルメットと頭髪だけだった。当時、仲間が亡くなることが続いたので、残された親御さんと話して、コメントや思いの記録をお渡しすることをよくやっていた。長谷さんの場合は少し戻った経緯やその後も自分で退路を断つようにやっていたので、山仲間が何か忍んでお渡しするような雰囲気でもなく、挨拶をして早々に引き上げた。その後もこちらからできることはなかった。
長谷さんはまっすぐな人だった。最終的には都会・里ではなく、山で自分が道を選ぶ選択をして、自分の人生を進んだ。論客だが攻撃的ではない。仲間に対して仲間として必死に向き合う、ちょっとおせっかいな人。小耳に挟めば放っておけない、おばちゃんのような先輩。俺に聞いて来いよーって。メガネの奥で易しい目をして、軽い口調で理路整然と、笑いを入れながら語りかけてくる人が長谷さんだった。距離の取り方が本能的にうまい人だったように思う。
感謝。ヒマラヤで安らかに。時々剣菱を買ってるから、飲むときに思い出しますね(笑)。